いやしのハンドブック Handbook for Healing
第1章 神様の全権 フランシス著
「ハレルヤ。 私は心を尽くして主に感謝しよう。 直ぐな人のつどいと 集会において。 主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に 尋ね求められる。 そのみわざは尊厳と
威光。 その義は永遠に堅く立つ。 主は、その奇(くす)しいわざを記念とされた。 主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」
(詩篇111:1−5)
主をたたえます。 私たちは、奇跡をおこなわれる神様に 仕えています。
イエス様がこの地上で生活されていたときに 行なわれた奇跡や超自然的働きを、神様は、私たちにも望んでおられます。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがありません。」
(ヘブル13:8)
主をほめたたえます。 私たちは、変わらない神様に仕えています。 もし心の底から、イエス様は 昨日も今日も、また明日も変わらないお方だと信じるなら、今日も 昔と変わらず同じ奇跡を行ない、また将来も行なわれることを信じなければなりません。 神様は 今のこの時代だけ、ご自身を内に宿している人々を用いて、これらの奇跡をおこなわれるのです。 イエス様は、
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしの行なっているわざを行ない、さらに、もっと大きなわざを行ないます。わたしが父のみもとに行くからです。 また、あなたがたが、わたしの名によって求めることは、何でも、わたしはそれをしましょう。父が子によって栄光を受けられるためです。 もしあなたがたが、わたしの名によって、何かを わたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」 (ヨハネ14:12−14)
と言われました。 イエス様が言われたのですから、間違いありません。 イエス様を信じる者は、イエス様と同じわざを行ない、さらに大きなわざを行なうようになります。 それは私たちが正しいとか、特別な力があるからではなく、イエス様がそのように言われたからです。 私たちは このみことばの終わりの部分を祈りの中に用いますが、祈り求める前に どのような条件があるかに注意しなければなりません。 それはイエス様が 私たちは奇跡をさえ行なう と言われたように、私たちが外へ出て行き 奇跡を行なう事なのです。
私は空港であろうと、店の中であろうと、事務所であろうと、ガソリンスタンドであろうと、また教会であろうと、すべての奇跡のゆえに神様に感謝しています。
私たちは起こった奇跡を 人々に語るのが好きです。 それによって人々の信仰は高められ、彼らに奇跡が起こり、そしてさらに
彼らを通して奇跡が行なわれるからです。 神様は単に、私たちが奇跡を受けるだけに終わるのではなく、奇跡を行なってもらいたい
と願っておられるのです。 ホセア4:6に、
「わたしの民は 知識がないので 滅ぼされる。」 (ホセア4:6) ( ・・・ 知識 = 主を知ること)
とあります。 しかし、今日この20世紀においては、人々は知識に飢え渇き、求めているため、イエス様が言われたように、私たちは実際に奇跡を行ない、超自然の世界を体験する事ができます。
私たちの爆発的いやしの集会で、いやしの訓練を受けた人々が 自分たちも超自然のわざを行なうことができるのを知り、非常に驚いているのを何度も見ました。
自分たちの手を見つめて、「神様が私をこのように用いてくださるなんて 信じられない。」と言うのです。
今日こそ、神様が すべての信じる者を招き、ご自身の望むことを 私たちを通して行われる時
なのです。 キリスト教とは、日曜日に教会へ行き、みことばを十分にいただき、すばらしい説教を聞き、一週間待って
次の日曜日にまた同じことを繰り返す、というようなものではありません。 キリスト教とは、生活そのものです。
パウロは力強く説教しました。
「私はキリストと共に、すでに十字架につけられています。 もはや、生きているのは私ではなく、キリストが、私のうちに生きておられるのです。 しかし、私が今、肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた、神の御子を信じる信仰によって、生きているのです。」 (ガラテヤ2:20)
私たちは頭だけではなく 心から、イエス・キリストは私たちの中に実際に住み、私たちを通してご自身を現わしたい と願っておられることを、理解する必要があります。 今のこの時代こそ、、神様が私たち信じる者の心に語りかけ、心地よい 教会の席から立ち上がり、神様が私たちを召してくださっている所へ出て行き、主の働きをする時代なのです。 五役者(ごえきしゃ)の務めとは、
「それは、聖徒たちに奉仕の働きをさせるように装備し、キリストの御体を建て上げ、 私たちが皆、神の御子についての、信仰の一致と知識の一致とに到達し、完全な大人になって、ついにキリストの満ち満ちた年齢に至るためです。」
(エペソ4:12、13)
五役者とは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師であり、キリストの体なる教会に、イエス様が行なわれたわざをどのように実行するかを教え、訓練し、成熟に導き、教育する者なのです。 長い間、五役者はすべての働きをする者であり 信者は休んでいる事だと勘違いしていました。 しかし、今はその時代(カトリックや制度的教会の時代)ではありません。 今日こそ力の時代であり、眠れる巨人が起き上がり活動する時代なのです。
私たちは、弱く、骨のない、力も奇跡もない教会ではなく、毎日毎分 すべての集会において、超自然の中を歩む教会であるべきです。 私たちは 使徒の働きの中の、超自然に関する箇所に しるしをしました。
ほとんどすべてにしるしをしました。 なぜでしょうか。 それは、使徒の働きの教会は、今日の教会の
ひな型だからです。 信じる者たちは、毎日出かけて行き、奇跡を行なうべきです。
先日、写真を撮るときポーズをとるように言われました。 私たち二人は 同時に、「私たちがどのようにポーズをとるか教えましょう。 そして私たちがそのポーズをとったら、写真を撮ってください。」と答えました。 私たちはイエス様のことや、今日 主が世界中で何をしているかを 話すのがとても好きなので、私たちの爆発的いやしの奇跡や、日常生活で起こったことを 話し始めました。 フィルムを替えるときになり、一人のカメラマンが来て、「首が悪いのです。 いつも痛みがあり とても苦しいです。」と言いました。 主よ、感謝します。 すばらしいチャンスがやってきました。 私たちは、「大丈夫ですよ。」と言い、手を置き、首の処置をしました。 彼はすぐに いやされたのです。
新しいフィルムがカメラに入れられ、私たちは再び神様が成しておられることを 語り続けました。 そしてまた、フィルムを取り替えるときが来ました。 他の人が息づかいを荒くして、「喘息なのです。 何とかしてください。」と言いました。 私たちは、「大丈夫ですよ。」と言い、イエスの御名により悪魔を縛り、喘息の霊を追い出し、新しい肺が作られるように命じると、突然 荒い息が止まり、深呼吸を始めました。
また撮影を再開し、フィルムを取り替えるときが来ると、他の人がスタジオの後ろから走って来て、「数年前、交通事故でむち打ち症になりました。 治してもらえないでしょうか。」と言いました。 私たちが、「身体全体の処置」をすると このユダヤ人は、神様の力と イエス様の御名の権威によって、すぐに いやされました。
私たちが事務所に帰ると、チャールズは私を見て、「今日はイエス様の弟子たちがいた時と、全く同じような日だったね。」と言いました。
これこそ、クリスチャンの毎日の生活でなければなりません。
翌日、私たちはオハイオ州クリーブランドに行き、テレビに出演しました。 帰ってくると、飛行場で 数年間会っていない友人に会いました。 彼は私たちと同じ飛行機に乗っていた母親を迎えに来ており、彼女を私たちに紹介してくれました。 母親は、「のどにひどい腫瘍があり、飲み込む事ができないのです。 何とかしてくださいませんか。」と言いました。 忙しい飛行場で奇跡を行なうとは、なんとすばらしいことでしょうか。 私が彼女に手を置くと、のどはすぐいやされました。 すると彼女は、膀胱の手術をしたばかりで まだ痛みが残っていると言いました。 チャールズはすぐに、「骨盤の処置」を行ないました。(とても忙しい飛行場でです。) そして「足の処置」を行ないました。 彼女は自分の身に起こっていることがとても信じられないようでした。 関節炎のひざもいやされました。 彼女の夫も 数分後、聖霊のバプテスマを受けました。 すべて飛行場での出来事でした。 自動車へ向かう途中、みことばを信じ、今日も奇跡が行なわれると
心から信じている この二人を用いて行われた、すばらしい いやしと奇跡を通して、神様がご自身の栄光と威厳と恵みを現わしてくださったことを、私たちは心から感謝しました。
私たちの爆発的いやしの集会を通して 訓練を受けた人々は、信仰をもって踏み出し、神様が自分たちをも用いてくださるという確信を持ちました。
医者のパネル・ディスカッションで 私たちは、それが大きな助けになることも
多く学びました。 今ではイエスの御名で多くの人がいやされ、その割合が増加しています。
いつも私たちが知っておかなければならない最も大切なことは、奇跡は イエスの御名により、神様の力によって完成されるということです。
イエス様は、
「わたしは、天においても地においても、すべての権威が授けられています。」
(マタイ28:18)
と言われました。 神様のすべての権威は彼に与えられました。 しかしイエス様が、ルカ10:19で言われたことに注目してください。
「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。だから、あなたがたに害を加える者は一つもありません。」
(ルカ10:19)
イエス様は、ご自身に与えられた力を、私たちに任せられたのです。 なぜでしょうか。 それは、私たちが 力なく弱い者ではなく、イエス様と同じ権威をもち、イエス様が成された同じわざを行なうためなのです。 私たちは聖書の一部を受け入れ、他は捨ててしまうことなどできません。 もし私たちが、イエス様が、私たちを罪から救い、永遠のいのちを与えるために来られたことを信じるならば、出て行ってイエス様と同じわざを行なうことも信じなければなりません。 イエス様は 奇跡を行なう力は自分の力ではなく、御父の力である と言われました。 その同じ聖霊の力が、無限に私たちにも与えられており、この地上でなさなければならないわざを 私たちが完成するためです。 大いに用いて、楽しみましょう。
力と権威が私たちに与えられていることは確かですが、注意しなければならないのは、私たちが器として用いられたとしても すべての栄光と賛美を 神様に帰すことを、はっきり教えなければなりません。 私たちは誤った謙遜に陥り、何もできないと信じてしまったり、また逆に、自我というプライドにとらわれ
すべての栄光を自らのものとしてしまうこともあり得ます。 すべての栄光は、神様に属することを、よく覚えておかなければなりません。
神様は、「全地は主の栄光で満ちている。」と言われました。 イエス様は、ヨハネ17章で、私たちはご自身の栄光である、と言われました。 それは私たちが彼も言われたことを 行なっているからです。 私たちがイエス様の命令を実行しなければ、神様の栄光になることは望めません。 この地は、聖霊のバプテスマを授け、悪霊を追い出し、福音を語り、異言を話し、病人をいやす人々で
満たされるのです。
各地の爆発的いやしの集会に、神様が送ってくださり協力してくださった多くの医師のために、心から感謝します。 私たちは 誰が集会に来るかわかりませんが、神様はいつもあらゆる分野の医師を 集会に送ってくださいます。 整形外科医、小児科医、産科医、足専門医、整骨療養医、眼科医、眼鏡商、視力測定士、歯科医、矯正歯科医、栄養士、婦人科医、骨症専門医、病理学者、外科医、その他の専門医と共に働くことができて、神様に感謝しています。 彼らのすばらしい医学的知識は、神様が与えてくださった霊的知識と組み合わされて、他の方法ではいやされなかったであろうと思われる 多くの人々を、いやしてきました。 もちろん、神様はいつも主権を持っておられ、みこころにかなった方法で奇跡を行なうことができます。 それらの多くの医者は、パネルディスカッションやいやしの集会を通して 学んだことにより、彼らの生活は完全に変えられた、と語ってくれました。 私たちは神様に心から感謝しています。
私たちは医者ではありませんから、薬を飲ませたり 止めさせたりすることはできない ということを覚えておいてください。 もしそのことをすれば、医業を行なっていることになり、法律違反になります。 免許を持っている医師だけができます。 いやしを行なった後、医者の所に戻って診察してもらい、レントゲンを撮り、血液検査をしてもらうなどを 行なってください。 それによっていやしを証明してもらうのです。 神様が私たちを通して成されたいやしは、すべて医学的検査をしてもらってきたのです。
人々は、「どうして 病院に行って、病人すべてをいやして 病室を空にしないのですか。」と聞きます。
たぶんその説明できる理由は、まず 法律的でない、ということです。 もし家族や友人から病院に招かれた場合、病院で行なうことができますが、それでも病院の規則に従わなければなりません。
あまり熱心になりすぎて、チューブを外したり、ベッドから起き上がるように言えば、医療を行なっていることになりますので、決してそれをしないように注意してください。
そのような決定は医者にしてもらうべきです。
聖霊に満たされた医者が いやしを行なったとしても、そのようなことを命令する事ができないときがあります。
ただその患者の主治医のみが、患者に対して治療を行ない指示する事ができます。
免許を持っている医者は、その病院の許可を得なければ医療を行なうことができません。
他の病院で医療の相談を受けたり、治療したりする場合は、その病院からの許可が必要です。
アメリカにおいては、一つの州で許可をもらっても 他の州で働くことはできません。
医師が治療するのに規則や法律の中で働かなければならないように、イエス様のいやしを行なう私たちも、特別なガイドラインの中で行なわなければなりません。
神様は、忠実な まじめな心を尊びますが、神様はいつもそれと共に 常識を与えてくださり、いつも規則に従うように願っていることを覚えておかなければなりません。 いやしの技術は、神様の力によっていやされたい人々のみに 制限しなければなりません。 イエス様は ご自分に来られたすべての人々をいやされましたが、イスラエルのすべての病人をいやされませんでした。
この本は、多くの医者の助けと、医者のパネルディスカッションのテープ、そしてまた
私たちが実際にいろいろな方法を通して、いやしを学んだことを集めてできたものです。
忍耐強く続けることによってこれらの多くのことを学んだことは、本当に驚くべきことです。
公認会計士のチャールズと印刷会社の社長の私は、共に事業をしなければならないという 粘り強さが、私たちのいやしの働きを維持したのです。 神様が望んでいる方法を見つけるまで続けます。 百パーセントまで達していませんが、イエス様がそう言われたのですから、必ずそのようになります。
私たちは学んだ方法をできるだけ簡単に表わすよう全力を尽くし、病人をいやすように用いてきました。 しかし、神様は 主権を持っておられることを覚えていてください。 あなたが学んだすべての方法と 反していても、神様はなお ご自身の方法を成されるお方です。 しかしどのような方法であろうと、私たちはすべての賛美と栄光を神様に帰します。
私たちは、神様が私たちの方法でいやそうと、いやすまいと、聖霊の力によって
イエスの御名で行なわれたすべてのいやしのゆえに、神様に感謝しています。
それらすべての方法は簡単ではありません。 もしそうであるなら、私たちは神様になります。
イエス様はみんなをいやされました。 そしてイエス様は、私たちも同じことをする、と言われたのです。
ですから、彼を信じる者が(それはあなたであり、私でもあります)みんなをいやす時がやってきているのです。
私たちの教えのモットーは、「もしチャールズやフランシスにできるならば、あなたにもできる。」です。
私たちが手を置くすべての人々が、私たちを通して働かれる神様の力により、完全にいやされる日に向けて働いています。
病人をいやすこれらの教えは、私たちにも多くの人々にも すばらしく効果があり、そしてあなたにもこれは効果があると確信します。 しかし、あなたが 小さなことまでは思い出さなかったとしても、神様にはすべてが可能であることを思い出してください。 この本はガイドブックとしてであって、規則ではないのです。 疑いもなく、私たちはもっと良い方法、もっと効果的な方法を見出すでしょう。 私たちは、いやしの効果を増すために、さらに良き方法へと変わる用意ができています。 どうぞこれらの方法を暗記しないで、むしろ一般的な理解と 聖霊の導きに頼ってください。 これらは単なるガイドラインに過ぎません。 これらは私たちがやってきたことであり、また、医者のパネルディスカッションから教えられたもので、いやしに効果があったため
あなたがたに伝達しているのです。
「いやしのハンドブック」は、「病人をいやす秘訣」の 簡単な復習としてのもので、ビデオテープとカセットテープでも出版されており、爆発的いやしの集会の前に
学んでおくものです。
「病人をいやす秘訣」の本や ビデオテープ、カセットテープを学ばないで、この本に記されている方法を行なわないように
とお願いします。 この本は、あなたが学んできたことに対する、補いであり、学んだことを復習するためのものです。
あらゆる方法を試みたにもかかわらず、何も起こらないように見えても、失望しないようにしてください。
パウロが言ったように、
「 ・・・ すべてを成し遂げ、堅く立つ (ことができるように、神の完全武装を手に取りなさい。)」 (エペソ6:13)
のです。 外見では何も起こらなくても、あなたが触れると 神様の力は病人に流れ込み、いやしは始まっているのです。 聖霊のペニシリンに時間をかけて働いてもらいましょう。
つい先日のことですが、一人の男性が私のところに来て、14年前に 頭蓋骨のない赤ちゃんのために祈ったことを 憶えているか、と聞きました。 ただ、頭蓋骨の周りが形作られているだけで、頭上部はとても柔らかく 骨がなかったのです。 両親は赤ちゃんの頭を守るため ヘルメットのようなものを着けていました。 私はその赤ちゃんのために祈ったことを思い出しました。 私がその赤ちゃんに手を置いたとき、何も起こらず それ以来両親から何も聞きませんでした。 私は 頭蓋骨がすぐに形作られるような即座の奇跡を見たいと思いました。 しかし、神様はそのような方法を取られなかったのです。 私は知る限りの事を成し、堅く立ちました。 そのことを思い出すと、その男性は 私がその頭に手を置いて2か月以内に、その赤ちゃんの頭蓋骨は完全になったと言ってくれました。
今日、14年経て、彼は健康な普通の人です。 あなたはいつも奇跡を目の前で見るとは限りません。
しかし神様は天国において、すべてが記録されているのです。 ハレルヤ!
私は踏み出さなければ歩くことはできませんでした。 話し出すまでは言葉を学べませんでした。
私は運転しなければ 自動車の運転ができませんでした。 私はタイプの練習をし、やり続けなければ
タイプができませんでした。 私は最初に試みなければ、病人をいやすことを学びませんでした。
私たちは、すべての人をいやす方法を まだ学んでいませんでした。 私たちが触れる人々が完全にいやされ、100パーセントになるまで
やり続けます。 私たちの願いは、母の胎内で 悪魔によって攻撃された てんかんや、知恵遅れ、盲目、耳しい、身体障碍者や、奇形になっている子供たちを
両親の元に戻す時、神様の力により完全にいやされることなのです。
私はまだ、このような子供たちが、すぐにいやされたのを経験していませんが、完全ないやしが
私たちだけでなく あなたにも現れるようになるまで、続けていきます。 イエス様は失われたものを捜し、救うために来られました。
そして、いやしを道具として用いられました。 イエス様は私たちに、全く同じことをしてもらいたいのです。
いやしを行なうことよりも 効果的に イエス様の真実を未信者に教えるものは、他にありません。
イスラエルの私たちの学校に、ユダヤ人の家族の方がいやしのためにやってきました。 彼らはイエスの名を用いることを拒否しましたが、いやしのチームがどうしても必要と感じるなら、使ってもいい と言いました。 彼は事故の結果、背中を痛めていました。 いやしのチームがイエスの名により祈ると、彼は完全にいやされました。 また、奥さんはチームの人に、自分の肺が悪いと言いました。
いやしのチームの人々は 彼女に手を置いても良いかと聞くと、「あなたが主人の足を伸ばし、背中をいやされた時、あなたの手から青い炎が出て
部屋を横切り、私の肺に入りました。 そして私はいやされたのです。」と言いました。
それから主人は、「もし、それがイエス様なら、私たちのメシヤとして 信じ、受け入れたいのです。」と言いました。 その日、二人とも救われました。 奇跡は百万の言葉にも匹敵します。
彼女にとって、青い炎が部屋を横切り彼女の肺の中に入ったのは、神様の特別な働きであり、そのユダヤ人の夫妻に対する
しるしだったのです。
ですから、私たちがどんなに病人をいやす方法を学んだとしても、(確かにできる限り学ぶ必要はありますが、) 神様の主権を決して過小評価しないようにしましょう。 神様はご自分の望まれる方法で、奇跡といやしを行なわれるのです。
● これらのことを考えてみてください マディソン・パーナット
「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」 (箴言17:22)
私が笑い、陽気で、神様を賛美し、運動するとき、 痛みをやわらげ、身体の組織にいやしをもたらす
エンドルフィンという物質が分泌されます。 エンドルフィンはモルヒネよりも強力です。
神様はすばらしいお方です。 アーメン。
もちろんその反対も起こります。 もし私たちに喜びがなく、神様を賛美せず、運動もしなければ、エンドルフィンは分泌されず、痛みを持ち、病気にかかります。
(陰気な心は骨を枯らす)
第2章 神様に触る時 チャールズ著
私が完全に神様に献身した後、1969年に、神は私の霊とたましいを
身体から取り出し、空中に持ち上げ、ご自身の栄光と輝いた光の中に 置いてくださいました。
それから私の身体の中に戻してくれました。 この話については、「私に従って来なさい」、「とにかく主を賛美します」、「新しく生まれるとは、どういう意味なのでしょうか」
に詳しく書いてあります。
私のたましいが 聖霊の中に入る前、自らの霊を見ると、私の身体にそっくりでした。 大きさにおいても、形においてもそうで、顔さえもそっくりでした。
ただ透き通って見え あたかも薄い雲に彫刻を施したようでした。
神が、みことばを私に生きたものとしてくださった時、私たちは新しく生まれ、聖霊のバプテスマを受けると 私たちの霊は 神の霊で満たされます。 私は、身体と同じ大きさの私の霊が、文字通り 神の霊に満たされたことに気がつきました。 また、イエス様が、私のいのちの入って来られた時、私の中に住み、ご自身の霊で、私の霊とたましいを満たしてくださることに気づきました。
パウロは、
「 ・・・ この奥義とは、あなたがたのうちにおられるキリストであり、栄光の望みのことです。」 (コロサイ1:27)
と言っています。 もしキリストの霊を持っていなければ、あなたはクリスチャンではありません、と言っています。
私は、イエス様が言われた、
「それは、父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、すべての者が一つになるためです。すなわち、彼らをも、わたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためです。」 (ヨハネ17:21)
が好きです。 私があなたの指に触れると、あなたは 神、イエス様に触れているのです。
私があなたの頭のてっぺんや足の先に触れたとき、あなたは、私の中に住んでおられる神様とイエス様に触れているのです。
このことを知った時、私たちの中の聖霊の力が、病人をいやし 捕らわれ人を解放するのだと わかったのです。 イエス様は、「わたしから力が出て行くのを感じた。」と言われました。
この力が病人をいやすのです。
病気になり医者に行き 診察してもらってから、たぶん医者は、「看護師さん、2ccのペニシリンを打ってください。 ばい菌を殺します。」と言ったとします。 そして看護師がペニシリン液と注射器を持って「先生、私はどのように注射をするかわかりません。」と言い、そして医者も「知らないよ。」と言ったらどうでしょうか。 ペニシリンは私の病気をいやすでしょうか。 もちろん いやしません。 私たちの霊が 完全に 神の霊、聖霊で満たされた時、病人の身体の中にどのようにして聖霊のペニシリンを流し込むかを 知らなければなりません。 いやしを行なうのは聖霊の力であり、いやしの原則は 私たちの中に与えられている聖霊の力を、病人の身体の中に注ぎ込むことなのです。
これが、「病人をいやす秘訣」の本と そのビデオテープや カセットテープ、そして 爆発的いやしで 私たちがおもに教えていることの一つ なのです。 一旦これを学ぶと、私たちが触れれば どのような病気でも 神様の力はいやす事ができると わかるまで、簡単な信仰が必要なだけです。
「病人をいやす秘訣」の本を勉強すれば、イエス様や弟子たちが、病人のいやしのために この力を、手を置くことや、命令や、信仰を行動に移すことや、悪霊を追い出すことや、その他いろいろな方法を用いられ、その力を注ぎこんだ実例に気づくでしょう。イエス様は、あなたが、「病人に手を置けば、いやされる。」と言われました。 私たちの本や、ビデオや、カセットテープを通して、イエスの御名により
神様の力を注ぎこませることを 学んだ 何万という人々が、ちょうど 初代教会のペテロ、ヤコブ、ヨハネ、パウロのように、多くの奇跡を体験しています。
ショッピングセンターで、腕を切断した人に出会い、あなたは周りの人々に、「皆さん集まってください。
神の奇跡を見せましょう。」と言ったらどうでしょう。 それから、イエスの御名で命令すると、その腕は手も爪もついて
完全に伸びたらどうでしょうか。 その時こそ、彼らにどのようにイエス様を信じるかを伝える大きな機会であり、あなたの責任でもあるのです。
何人イエス様を信じると思いますか? 全員です!
第3章 神様の力で倒される チャールズ著
私たちが何百、何千もの人々に手を置いて祈る時、聖霊の力に人々は倒され、いやしが行なわれるのを見てきました。 悪霊からの解放、病のいやし、傷のいやし、うつ病のいやし、態度の悔い改め、悪い習慣からの解放、心の傷のいやしなど
様々な分野におけるいやしのみわざが 行なわれてきました。 この聖霊による圧倒的な力は、しばしば「聖霊によって倒される」、「聖霊の中で休む」などと言われています。
イエス様がパウロにダマスコの途上で現われたとき、また、イスカリオテ・ユダと兵士たちがイエス様を捕らえたとき、また、黙示録でも 使徒ヨハネがパトモス島にいたときも、同じようなことが起こりました。 このような聖霊の力が病人をいやし、世界中のすべての働き人を合わせても成しえないほどのわざを、成就し、私たちのたましいの深みに休息を与えてくださいます。 ですから、人々婦がいやされた後でも、手を置きます。 聖霊の力は肉体のいやしのみならず、内なる心の必要をも満たしてくれます。 これを私たちは受けてもらいたいのです。
私と妻が、キャサリン・クールマンの集会に出席していたとき、キャサリンが会場の中からフランシスを呼び出し、手を置いて祈っているうちに、聖霊の圧倒的力により床に倒れました。 それまでフランシスは、聖霊のバプテスマについて疑問を持っていましたが、聖霊の中に安らぎ、床から起き上がったときには その疑問がすべてなくなり、そのすぐ後に フランシスと私は、聖霊のバプテスマの体験をしました。 主ご自身が、私たちの必要をご存じで、満たしてくださったのです。
あなたが誰かのいやしのために祈ったと、額か こめかみに触れて、単純に「イエス様、祝福してください。」と祈ってください。 その人が後ろに倒れるのを受け止める人を付けておくことを 忘れないように。 しかし、倒れなくても気にかけないでください。
床に倒れた人は、神ご自身が働き続けておられるので、特に触れたり、話しかけたりしないように勧めます。
第4章 聖霊の賜物 チャールズ著
イエス様はすべての信者に、病人に手を置けば いやされる、と言われました。 すべての信者に、悪霊を追い出す力が与えられ、異言を語り、サタンに打ち勝ちその策略から逃れ、病人にいやしを与えることができるのです。 すべての信者は、もしイエス様に従順なら、神様と共に歩む 日ごとの生活の中で、それらの奇跡以上の事ができるのです。 しかし、パウロは 聖霊の賜物について 非常にすばらしいことを言いました。
「兄弟たち。御霊の事がらについては、次のことに無知でいてほしくありません。 ・・・・ 賜物にはそれぞれ違いがありますが、御霊は同一の方です。 役職(五役者)にはそれぞれ違いがありますが、主は同一の方です。 働き(奉仕の召し)にはそれぞれ違いがありますが、すべてのものの中に働かれ、すべてのことをなさる神は、同一の方です。 皆の益となるために、それぞれの人に御霊の現われが与えられています。 すなわち、ある人には御霊を通して知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊にしたがって知識の言葉、 また他の人には、同じ御霊にあって信仰、またほかの人には、一つの御霊にあっていやしの賜物、 また他の人には奇跡の力、また他の人には預言、また他の人には霊の見分け、また他の人には各種の異言、また他の人には異言を翻訳する力が、与えられているからです。 これらのものは皆、一つの、また同じ、御霊の働きであって、御霊はみこころのままに、それらを各自に分け与えられるのです。」
(Tコリント12:1、4−11)
私たちはみな 病人い手を置いて祈る必要がありますが、みなが 聖霊の賜物を用いる資格があるわけではありません。 いやしの賜物は、病人に手を置いて祈ることと 全く違います。 いやしの賜物は、たいてい多くの人々が出席している集会などで現わされる、超自然的な 神様の賜物です。 個人的に手を置いて祈ることはできますが、普通は注がれません。
最近のことですが、私たちの集会で、耳しいの小さな少年が眠っていました。 彼は95パーセントも聞こえなくて、何もわからなかったからです。 彼の母親は集会後に 手を置いて祈ってもらおうと思い、彼を連れて来ましたが、超自然的いやしの力が現われ、突然 彼は目を覚まし、立ち上がって耳をふさぎ、「お母さん、ここから早く出ようよ。 あまりやかましくて耳が痛い。」と言いました。 彼は、人間の力を介しないで、神様の超自然的力でいやされたのです。 集会後に彼の耳をテストし、約1メートル離れた後ろからささやいても 私の声のすべてを聞くことができました。 このような特別な賜物はいつも働くとは限りませんが、集会を通して神様が実際に働いておられる一つの大きなしるしであり、また、不思議でもあります。
すでに話しましたが、病人のいやしに関して非常に重要な2つの賜物を、もう少し説明しておきましょう。 これはまた、成熟していないクリスチャンにとっては危険な道具にもなりますが、この二つの賜物とは、「知識の言葉」と「知恵の言葉」です。
私たちの娘婿のボブと 娘のジョアン・ベーカーは、この2つの賜物を力強く用いて、多くの場合、自分の霊を開き
神様の霊を聞くことにおいて、非常に成熟しています。これらの賜物は、単に神様の声を聞き、言われたことを伝えることであり、正しく用いればすばらしい効果を発揮します。
しかし、すべての者がこれらの賜物を持っているわけではありません。 パウロは、「ある人に」
この賜物が与えられ、他の人に他の賜物が与えられており、私たち全員がこれらの賜物を持ってはいない、と言っています。
私たちが、肉によってではなく、霊によって働いているならば、すばらしいことが起こります。
しかし、肉で働いている場合はとてもひどいことが起こる時があります。 成熟していないクリスチャンは、神様が言われることよりも
自らの起こってほしいと望んでいることを 考える傾向にあります。 そして神様のご計画の前に、勇み足をしてしまうのです。
時には 実際に起こることが私たちの望んでいないことかもしれませんが、それは、私たちに栄光と賛美をもたらすものなのです。
知識の賜物を働かせようとするとき、成熟していないクリスチャンは、「神様はあなたには癌があり、もうすぐ死ぬと言われました。」という時があります。 このような言葉を聞いた人は、癌にかかっているとの思いに捕らわれ パニックに陥ってしまいます。 聖霊の賜物を働かそうとするとき、どんなにまじめであっても、成熟しておらず 不注意で、利己主義であるため、多くの傷とダメージをもたらすことがあるのです。 ある婦人が、私たちと以前伝道旅行をしていた歌手に 恋をしました。 彼女はこの歌手に このような面白いことを言いました。 「私はあなたの上に死の霊が漂っているのが見えます。 その霊を取り除くただ一つの方法は、奧さんと離婚して 私と結婚することだ、と神様は語っておられます。」と言ったのです。
これは特異なケースですが、他の人々にも起こりうることです。 この男性は恐れて、私たちに
彼の上に死の霊があるかと尋ねました。 私たちは、そのようなものはないと彼に告げ、彼女の言ったことは忘れるように言いました。
フランシス著
知識の言葉は、いやしにおいては、とても大切な賜物です。 というのは多くの場合、人々は言わないか、自分が実際にどこが悪いか正確なことを知らないときがあるからです。
ずっと以前の事ですが、長年の間 話をしていない一人の婦人が私たちの集会に来ました。
彼女は私たちの集会に出席する20年前までは、全く普通の状態でした。 私は
彼女に、病気か、高熱か、または他の身体的問題でそうなったのかを聞きました。
すると神様は、「20年前、彼女は 主人が人殺しをするのを 見たのです。 彼女は
その証言をしたくなかったので、自発的に 話をする能力を失ってしまったのです。」と語ってくださいました。
このような時にこそ、知識の言葉と共に 知恵の言葉が必要なのです。 私は、「神様は、今私に、あなたのご主人が人殺しをしたのをあなたが目撃したことを、言われました。
それがあなたの問題です。」とは口に出して言いませんでした。 そう言うのは、とても愚かなことです。
集会が終わり、私は牧師と話しており、何気なく彼にこの婦人の過去について
特に何か知っているか尋ねました。 牧師は、「ええ、何年も前、彼女のご主人は人殺しの罪で裁判にかけられました。
その時から彼女はこのようになったのです。」と言いました。 私は彼に神様が語ってくださったことを話しませんでしたが、彼は神様が私に語られた言葉を裏付けたのです。
その婦人はまだいましたので、私は彼女のところに行き、手を置いて、彼女の思いの中からそれらのことを取り除くように祈ると、すぐに彼女の言語能力は回復しました。
知識の言葉が個人的に私に与えられました。 神様が私に、その知識の言葉をどのように用いるか、知恵の言葉を与えてくださったので、軽率に話したりしませんでした。
知識の言葉は、ほとんど例外なく、あなたが人と関わっている場合にとても価値のあるものですが、あなたを良く知っており あなたの霊的成熟度を理解している 教会の指導者のもとで、まず行わなければなりません。 このようにしてあなたは正しく導かれ、この分野においてあなたが成長するように助けられるのです。 私が受けたように、あなたが知識の言葉を受ければ、それをどう扱うか神様にたずね、そして、まずそれを語られたのは神様なのかを 確認することです。
すっと以前に、私が救われた時、私はフロリダ州サラソタのペンテコステでない教会で、話をしていました。 私は 聖霊の賜物や 異言や そのようなことについては何も知りませんでした。 私は人々のために講壇で祈っていると、一人の男性が私のところに来て、「あなたはいやしの賜物があります。 なぜそれを使わないのですか。」と言いました。 私は彼が何を話しているかわかりませんでしたから、何も言いませんでした。 彼はすぐに向きを変えてドアに向かい、消えていきました。 私はそれが御使いではなかったのだろうかと思うのですが、私はそれを誰にも話さず、それまでやっていたことを続けていました。
たとえそれが人からであろうと、御使いからであろうと、明らかにそれは知識の言葉でした。
というのは、それが現実のものとなったからです。
肉によってもたらされたにもかかわらず、神様からの預言として受け取られた場合には、これまで多くの善良なクリスチャンを 迷わせてきました。 私たちは、預言よりも、聖霊に従っていくべきです。 ある人が私たちに対する預言をした場合、私たちはそれをいったん横に置いて、実現するのを待ちます。(結果吟味) それが実現すると、その人が真の預言者であることがわかりますが、私たちは決してその預言を実現させようとは努力しません。
もしそれが神様からのものであれば、その通りになり、もしそうでなければ 起こりません。
それは、とても簡単なことなのです。
あまりにも熱心になりすぎて、あなた自身の肉から出た 知識の言葉や預言によって、人々の人生をかき乱すことのないようにしてください。 それでも、このまま 賜物を十分に働かせることができるように成熟するまでは、母教会等の霊の傘下で働いてください。(カバリングの守り) その時が来たら、聖霊の賜物や能力は、神様のために成そうとしていることを完成するために、用いられるべきです。
それらの賜物はすべての人に与えられているとは限りませんが、すべての信じる者は
いやしを行なうべきです。 聖霊のいろいろな能力や賜物を用いるには、成熟し、経験豊かで、聖霊に満たされ、心から神様とキリスト・イエスを愛し、自分の願いよりも神様の望まれることを優先し、神様のことばを学び
黙想するのに十分な時間を費やす クリスチャンとならなければなりません。
もし私が、赤ん坊のクリスチャンであるなら、私は啓示の言葉を求めるよりも、むしろ神様のみことばを何時間も学び、神様を求め、イエス様を求め、神様を喜ばせるように努めます。 私は4歳の孫娘が車を運転する、といっても信頼できません。 しかし彼女が正常に成長すれば、運転する資格を持てるようになります。 それまでは、私たちの方で その年齢にかなった必要なものを与えていくのです。 新しいクリスチャンにとっても、同じことが言えます。 古くから伝えられている とても良いことわざがあります。 「歩けないのに、走ろうとするな。」 これは小さな子供たちにありがちです。 そして すぐに転んでしまい ひざをすりむいてしまいます。 あなたの能力と 成熟の程度に従って、聖霊の賜物を受けるようにしてください。 神様はあなたが召された働きを完成するために、それらの賜物を用いる多くの機会を与えてくださいます。
ここで牧師先生方にお願いしたいのですが、間違いを防ごうとするあまり、成長途中にある信徒の熱心さを、全く拒絶することのないように気を付けてください。 たとい間違いが起こっても、それを正すことの方が、無関心な信徒に興味を抱かせるよりは はるかに簡単なことだからです。